貝原益軒の生涯を年表にまとめてみました。85歳という江戸時代にしては非常に長寿の生涯をすごしています。

その間、閉居の命など7年もの間不遇の時期も経験していますが、そういった経験からの言葉の数々が養生訓や楽訓、家道訓、慎思録などにまとめられているのだと思います。

家道訓なども読むと道徳的なこともいろいろと記載されており、勉強になりますので、ぜひ読んでみてください。

益軒は生涯、転居も多く、かなり数多くの引越しを余儀なくされているようです。どうもそういったことも貝原益軒の行動や物などに囚われない性格に影響を与えているのだそうです。

85年の長い益軒の生涯から得た貴重なアドバイスをしっかりと読んでみたいと思いました。

年号 貝原益軒の行動
1630年 貝原利貞の五男として、福岡で生まれる
1636年 生母が亡くなる。
1638年 島原の乱が起こり、父と長兄は藩主に従い、合戦に参加。その間、益軒は次兄より漢字を習う。
1641年 父の藩務の関係で新大工町に移転。以後転々と引越しを繰り返している。
1643年 父の後妻が亡くなる。父は益軒に医学書や植物の学問を教えた。
1645年 父は江戸勤務を命じられ、江戸に移り住む。
1649年 藩主黒田忠之から給与四人扶持を与えられる。二十歳になり元服。藩主忠之の共で長崎へ行く。ただし帰国早々、忠之に叱責され謁見禁止4ヶ月の処分を受ける。原因は不明。
1650年 再び藩主忠之の怒りに触れ、失職。以後7年の間失職状態となる。
1656年 2年前に新しい藩主になった黒田光之に出仕を命じられる。給与は六人扶持。以後黒田光之からは厚遇を受ける。
1657年 藩の重臣立花勘左衛門の部下となる。藩士に対して大学などの講義を始める。この年、京都遊学に出発する。
1659年 光之の命により、江戸に出仕する。その後再度京都遊学に出発。
1664年 再度光之の命により江戸出仕。光之の世子綱之への講義を行う。「易学提案」「読書順序」の著書をまとめる。
1668年 「自警編」をまとめる。黒田家の支藩秋月家の藩士江崎氏の娘と結婚する。益軒39歳。妻17歳。「朱子文範」「近思録備考」をまとめる。
1671年 再び京都へ遊学にでる。黒田家譜の取りまとめを依頼される。
1678年 黒田家譜を完成させ、光之に献じる。
1689年 長兄が死去。藩から黒田家臣由来記の編纂を命じられる。
1692年 再び江戸行きを命じられ姫路、伊勢、駿河、鎌倉などに立ち寄り出仕。その後京都遊学。
1699年 藩から辞職を許され、以後著作活動が活発になる。
1703年 「五倫訓」、「君子訓」を著す。
1709年 「大和本草」を書く
1710年 「楽訓」「和俗童子訓」を書く
1711年 「家道訓」「五常訓」を書く
1713年 「養生訓」を書く
1714年 「慎思録」を書く。8月27日亡くなる。

 

最後に貝原益軒の楽訓の中にある言葉を紹介します。

学ばざる人は内にある楽を知らず。また外なる楽をむなしくす。内外二ながら失へり。

人生を楽しむためには、楽しむためのものは実は内すなわち心の中にある。外すなわち物を買うなど欲しい物を手に入れることでは本当の楽しみを得られないということを言っています。

学ばざる人は内にある楽をしらず

本当の幸福や楽しみは気付くことで得られるということですね。

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