貝原益軒の名著では養生訓が有名なところですが、今回他の著書「楽訓」からの言葉をご紹介します。
貝原益軒は江戸時代の初期1630年に福岡に生まれています。当時の藩主黒田家に奉仕しています。ただ20歳のとき藩主黒田忠之に仕えていた際、怒りに触れ以後7年間失職していたようです。その間学問に打ち込みかなりの評価を得ています。

その貝原益軒の楽訓ですが、楽しみを持って生きていくことを説いています。ただし、只面白おかしく暮らすということではなく、自らの心構えをしっかりとして、今ここにある事象をしっかりと見極めることで、実はそこにあるものが幸せであり、楽しみが隠されている、それを見つけることができるかといったこと、伝えたいのだと思います。

心ここにあらざれば、見れども見れず。目のまへにみちみちて、楽しむべきありさまあるをもしらず。春秋にあひても感ぜず。月花を見ても情なし。聖賢の書にむかひてもこのまず。只私欲にふけりて身をくるしめ、不仁にして人をくるしめ、さがなくいやしきわざをのみ行ひて、わづかなる命の内を、はかなく月日をおくる事をしむべし。
貝原益軒 楽訓

楽しみをあちこち外へ探してもどこにもなく、実は今ここにいる場所をよく見ることで、見えてくるといっていますね。目の前に楽しむべきものはたくさんあるのに見えていない。季節の移り変わりの美しさ、月や花の美しさにも気がつかない、聖賢(孔子や孟子)の書物を読んでも気付くものもない。無駄に月日を送ってはいけないといっています。
(吉田松陰の「君子素餐すること勿れ」です。)

まさに、今ここにあるものにしっかりと気持ちを持っていかないと、せっかくよいのもはそこにあっても気がつかないということ。実は幸せはすぐそこ、自分の足元日常の中にあり、それに気付くことが大切だといっていいるのではないでしょうか。

心ここにあらざれば、から始まる文としては四書五経で知られる中国古典の「大学」の言葉が知られているところです。

『心ここに在らざれば、視れども見えず、聴けども聞こえず、食らえどもその味を知らず』
(大学)

「今ここ」という考えは禅の考えにも通じるところがあるかと思います。まずは今ここにしっかりと集中して、今を活かし切ることが、明日、未来への通じていくのだと思います。

今できること、やれることをしっかりと実行していくこと、これを心がけたいと思います。

至誠実行

 

従容不迫の記事へ)

貝原益軒の常に礼を守りての記事へ)

貝原益軒の生涯の記事へ)

勇者の振る舞いの記事へ)