こちらも世阿弥の言葉です。

能を見ること、知るものは心にて見、知らざるは目にて見るなり

通常私のような凡人では、目で見た現象、事象をそのまま捉えてしまうということがよくあります。様々な事柄には実際には裏から、横からの見方で違う捕らえ方になる場合があります。また現象そのものでは見えてこない本来の根の部分をみることも重要なことです。

この世阿弥の言葉は、芸の稽古などをする際、上手の真似、または対象者(たとえば老いた人や女性など)のうわべの動作だけを真似るのでは不十分で、本当になりきることが大切であることを説いています。

世阿弥の解説本などにも、この言葉の解説に、体用(たいゆう)論もでてきていました。この体用論とは現象の「本体」とその「作用」のことだそうで、よくある例えとして花が体であるならば、花から香る匂いは用である。また剣豪の話でもでてきますが、剣を振り下ろす動作が用ならば、将に振りかざそうとする心が体である、ということです。

この体用論のいうところの、うわべの作用だけを見るのではなく、その本(もと)、心をみてまねなければならないといっています。

日本の諸道、芸術においてはこういった目で見るだけではなく、心でみていかなければ深くは理解できないものが多いようです。

作者が作成したものだけの鑑賞ではなく、鑑賞者の心(想像力)をもって完成する芸術であり、鑑賞者もそれなりの経験と力量(知識)が必要になってくるということです。

茶道などでも一輪の桜の花びらを活けて、満開の姿を想像してもらったり、直接見えないもの、聞こえないものからの想像力(創造力)が問われてくるもがあります。こうは言ってもなかなか難しいところですが、日々勉強です。

平常心是道

何事も日々の訓練が重要、日々「平常時」の鍛錬を続けていきたいと思います。

 

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