世阿弥の生涯をまとめました。

世阿弥は能役者としてのみでなく、能作者としても活躍し、今でも残る多くの能楽曲を残しています。ちょっと前まで披露宴などで謡われていた「高砂」などもそうです。
幽玄な雰囲気のある舞いを得意としていたようです。

 世阿弥の生涯 年表

年号 世阿弥の行動
1363年 大和猿楽師の観阿弥を父として、世阿弥生まれる。
1374年 今熊野の猿楽能に出演し、足利義満の目にとまる。以後足利義満の寵愛を受ける。
1384年 父観阿弥が静岡浅間神社で法能の後、その地で死去。
1400年 能楽の精神や芸についても奥義を著した「風姿花伝」をまとめる。
1408年  足利義満が死去。4代将軍足利義持に代わる。義持は田楽能を好み、増阿弥が寵愛を受けるようになり、世阿弥の出番は少なくなる。
1424年  能楽伝書の「花鏡」を息子元雅に送る。「花鏡」:初心忘るべからずなどが記載されている。
1428年  足利義持が死去。義教が就任。義教は能学師としては音阿弥(世阿弥弟の子供)を好んでいたため、世阿弥の出番が少なくなる。
1429年  突然御所への出入りを禁じられる。そのため地方に能楽をしに出るようになる。
1432年  子供の元雅が死去。世阿弥は元雅の能楽師としての技量を父観阿弥同等に高く評価していたため、かなりのショックを受ける。
1434年  佐渡に配流される。
1441年  世阿弥80歳で亡くなる。亡くなる前に京都に帰ったかどうかは不明。

年表にあるように、観世座を継ごうとしていた、息子の元雅が若くして死去したため、かなりのショックを受けていたようです。その後甥の金春禅竹を技術の跡継ぎとして、芸についてなどいろいろとアドバイスをしています。世阿弥が佐渡に流されている際にも、世阿弥から金春禅竹に宛てた手紙が残っており、世阿弥の妻が世話になっているお礼や、芸の技術的なことのアドバイスを行っていました。

世阿弥は風姿花伝や花鏡など多くの伝書を書き記し、技術の継承を心配していたようです。

日本の伝統文化の能楽を学んでみたいと思います。

 

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